ナナシロが一人企画事務所を始めるまで。

こんにちは。

ナナシログを運営している、ナナシロ(@nanashiro1988)です。

 

僕は「一人企画事務所」という肩書きで活動しております。

(開業届出していないので、名乗っているだけです。笑)

ざっくり言うと、あらゆるジャンルで企画から携わり、制作もすべておこなうクリエイティブなゼネラリストですね。

 

※一人企画事務所としてどんなことをしているかは、以下の記事でくわしく書いています!

何ができるの?

 

そんな僕のことを、クライアントや仕事仲間は、

「ナナシロくんほど幅広くクリエイティブの仕事をおこなっている人って、なかなかいないよね」

とおっしゃってくださいます。

ありがたい限りです。

 

サイト制作、デザイン制作、イラスト制作、執筆、動画制作……と幅広くおこなえるスキルがあるため、

「美大を出ているんですか?」

とよく言われるのですが、僕は美大を出ていません。

それどころか、制作スキルを身につけたのは大学を卒業してからです。

大学までは趣味でちょっと絵を描いていたくらいで、特にそれを仕事にしようとは思ってもいませんでした。

 

今では、自分がプレイヤーとして活動するだけでなく、これからフリーのクリエイターを目指している人たちを教育する活動もおこなっています。

具体的に言うと、フリーランスになりたい人向けの合宿「田舎フリーランス養成講座(通称:いなフリ)」で、Webサイト制作やデザイン制作の講師をやっています。

 

というわけで。

この記事では、ナナシロがどのように育ち、どういう経緯でフリーランスのマルチクリエイターになり、一人企画事務所と名乗るようになったのかご紹介していきます。

(細かいところはいいから経歴の年表を見たいよ!という人は、目次の「経歴まとめ」をクリックしてね!)

 

環境に恵まれた幼少期

1988年3月22日、クリエイティブディレクターの父と、美大卒で元デザイナーの母の間に、2人兄弟の長男として生まれました。

とてもおとなしく、つつましく、女の子のようにかわいらしかったそうです。

見た目の良さとおとなしさもあり、小さい頃はモデルとして地方の新聞や婦人向け雑誌に出ていました。

撮影の現場を取り仕切っていた父が、他のモデルの子たちをはねのけて我が子をモデルに採用しました。

 

小さい頃は一切分からなかったのですが、僕の家は完全に美術系の家系でした。

父方の祖母は書道の先生でしたし、母方の縁戚にはかの著名芸術家・岡本太郎氏がいます。

(参照:Wikipedia

 

ですが、両親は僕に美術方面に偏重した教育をおこないたくないという思いから、家で美術の話をしたことはありませんでした。

 

そんな環境ですくすくと育った幼少期の僕は、図鑑を読むことが大好きでした。

恐竜、宇宙、植物、魚……とさまざまなジャンルの図鑑を読みましたが、中でもお気に入りだったのは昆虫図鑑でした。

 

この頃は、人よりも物に興味を示すことが多い上に、自分の世界に没頭することが多い子供だったため、両親はやや自閉症気味だと思ったそうです。

しかし、自分の頭で考え自分の目で見る僕らしさの原点は、この頃にできあがったように思います。

 

創造性の片鱗が見える小学生時代

相変わらずの引っ込み思案ではにかみ屋。

そして、とても忘れ物の多い子供でしたね。

 

この頃からクリエイティビティーが芽生えはじめ、1万字以上の小説を書いてハンドメイドで製本したり、昆虫の標本を作ったりしていました。

学校ではみんなから「昆虫博士」と呼ばれていました。

 

また、友達や弟と独自の遊びを開発してよく遊んでいました。

今覚えている限りでも、

  • 遺跡発掘(地面に埋まっている茶碗のかけらを「大発見だ…!」と言いながら丁寧に掘り出す)
  • サバイバル鬼ごっこ(岩陰や茂みなどの地の利を利用して隠れながらおこなう鬼ごっこ)
  • おかきおかーきー(横スクロールのアクションゲームのステージを紙に描いて、指で「トゥイーン!トゥイーン!」とステージを進んでいく遊び)

などありました。

 

ちなみに、最後の「おかきおかーきー」のアイデア。

その後マリオメーカーというゲームが任天堂から出たとき、「あ、これ僕の二番煎じじゃん」と思いました。

 

独自の価値観を築いた中学生時代

相変わらず興味が散漫で、サッカーのクラブチームに所属しながら、バレーボール部、美術部、合唱部に所属していました。

 

引っ込み思案でおとなしいところは相変わらずでしたが、この頃から独自の哲学を持つようになります。

文集の将来の夢の欄に「教祖」と書いたり、初めてディズニーランドへ行って「僕の方が面白いテーマパーク作れるよ」と言ったり、かなりクセの強いとがった中学生だったと思います。

 

ここではあまり触れませんが、第二次性徴に伴い、自分の心の中には男性だけでなく女性もいると感じることが増え、「自分は周りの子たちとちょっと違う」という疎外感を感じた時期でもありました。

声変わりの所為で合唱のパートをアルトからバスまで落とされて絶望し、一生懸命高い声を出せるように努力したのは苦い思い出です。

誰とでもそつなく付き合えるけど、興味関心や嗜好、価値観、あらゆるものが同級生と違いすぎて苦しかったことを覚えています。

 

個性が爆発した高校生時代

僕の中にある個性が一気に解放された時期でした。

成績は学年トップクラス、運動会ではリレーのアンカー、IQテストでも校内トップクラス。

先生からの信頼も厚いという無双状態だったため、良い意味で自信を持てた、悪い意味で慢心していた時期でした。

 

この頃から、自分で仕事を生み出すことを覚えました。

具体的には、先生に営業をかけて遠足のしおりのイラストをすべて担当させてもらうなどしていました。

 

年を追うごとにクリエイティビティーが増していた僕は、この頃から積極的に絵を描くようになりました。

ですが、僕より絵が上手い人はたくさんいましたし、特にそれを仕事にしようとは思いませんでした。

 

中学時代に「教祖」を目指した少年は、高校時代に進路希望調査票に「神」と書いて、家族会議を開かれました。

こういった自由奔放な発想力とそれを行動に移す臆面の無さが、徐々に頭角を表していきます。

(良し悪しはさておき。笑)

 

クラスに一人はいる変なヤツの出来上がりです。

 

教育業という天職を見つけた大学時代

大学は、内申がほぼオール5だったこともあり、指定校推薦で青山学院大学の文学部史学科芸術史コースに入学しました。(現在は文学部比較芸術学科です)

 

サークルは漫画研究会に所属し、卒業までに漫画を6〜7作品ほど作りました。

部員としての活動だけでなく、自分で同人誌を制作し発表する等もしていましたね。

漫画研究会は学祭のときに似顔絵をやるのが恒例で、青学の学祭出店人気ランキングでも1位をとるほどの人気でした。

そこで、女の子をナンパする目的で一生懸命似顔絵を描いていたのですが、ちょうど学祭特集で取材にきていたNHKの某テレビ番組に出演し、つるの剛士さんに似顔絵を描くことになりました。

これは芸能界に興味を持つ良いきっかけになりましたね。

 

大学はもっぱらサークルのためだけに通学し、講座にはほとんど出席していない典型的なダメ学生でした。笑

その代わり、塾講師のバイトにのめり込んでいました。

もともとは子供嫌いを克服するために始めたバイトだったのですが、いつの間にかどハマりしていました。

さまざまな人の人生に向き合うことに大きなやりがいを感じましたね。

 

塾講師のときの印象的なエピソード

塾講師としての僕の強みは、

  • どのレベルの理解度の子にも確実に伝わる説明力
  • どんな個性的な子でも受け入れられる柔軟な対応力

の2点でした。

これは、今仕事をする上でもお客様から評価していただくポイントとなっています。

 

僕が配属されていた教室は、東大が近かったため先生がほとんど東大生でした。

一流の私立中高を目指す受験生はみんな現役東大生の先生に教わっていましたが、通っている生徒はそういう人ばかりではありません。

  • 集団授業についていけずに個別授業に変更した子
  • 引きこもりや不登校の子
  • 親の期待が大きすぎて潰れてしまった子
  • 自閉症等の発達障害を持ち特別学級に通っている子

……と、本当にさまざまな子がいます。

僕はいつしか、他の先生たちが受け持たない一癖も二癖もある子ばかりを受け持つ塾講師となっていました。

 

その中でも一番記憶に残っているのは、登校拒否をしていて虚言癖のある中学生の男の子と、メンタルに課題のあるシングルマザーのお母様。

母は子を過剰に心配し、子は母を拒絶しており、親子それぞれにカウンセラーがついている状態でした。

親子関係を良好にしていかないと、授業するだけでは何一つ前に進まないと判断した僕は、室長の許可をとって、2人のカウンセラーをそれぞれ塾に招集し、今後の方針を相談しました。

そうしたことで、親子で話し合う場ができ、口を開くとすべて嘘ばかりだった彼が僕との約束だけは守ってくれるようになりました。

最終的にはなんとか親子とも納得した状態で高校進学が決まり、プロのカウンセラーの方々から僕の対応を絶賛していただき、大きな自信になりましたね。

 

この経験をきっかけに、僕がやるべき仕事はこれだという使命を感じるようになりました。

 

迷走した就活

1章まるまる塾講師の話を書くほど(笑)、塾講師という仕事は僕にとって本当に天職だったため、そのまま正社員になるという選択肢もありました。

しかし、社員になると基本的に塾運営の立場になり、講師として現場に立ち続ける未来が見えなかったため、就職先として塾業界を選ぶことはありませんでした。

 

教職課程も履修していたため、就活と同時期に教育実習へ行きました。

出身高校で実習したのですが、在校時代に成績がトップクラスだったこともあり、鳴り物入りで実習をスタート。

塾講師バイトで磨いた指導力も遺憾無く発揮し、校長先生や他の実習生が特別に僕の授業を観覧しにきました。

 

指導教諭からは「君は教師が向いている。ぜひなってくれ」と絶賛されました。

しかし、僕はなりませんでした。

それどころか、教員免許すら取得しませんでした。

 

理由は、教育実習中に僕が一生懸命相談に乗ってあげていた生徒のことを、指導教諭が

「あ〜あいつは無理だろ、不器用だから」

と一蹴したことでした。

他にも、教師同士の派閥や政治的な働きかけがあって、本当にうんざりしましたね。

僕は教育実習を経て、公教育に関わることを完全にやめることにしました。

 

そのため、特に何もやりたいことがないまま就活を始めることになりました。

そして、自己分析をしていく中で「労働とは何か」「生きるとは何か」という哲学にぶち当たります。

この頃に自分の在り方、社会との関わり方に、多くの疑問や悩みを持ったことが、今の生き方に繋がっていると思います。

 

このままだと就職留年になりそう、というときに、訪問販売の会社から内定をいただきました。

1次2次と面接すべてで遅刻し、最終面接では1.5時間社長を待たせたのに、

「パンチの効いた、いい目をしているな」

と言われ採用していただいたのでした……。

 

家と仕事を失った訪販の営業マン時代

最初に入社した訪販の会社は、社員がみんな体育会系な上、会長や社長はヤ●ザのような雰囲気のブラック企業でした。

 

僕は最初の数ヶ月売り上げが好調でルーキー扱いされました。

しかし、「売るとは何か」という哲学にぶち当たったため、急失速、売り上げが地に落ちて社内で人間扱いしてもらえなくなりました。

 

入社半年ほど経ったある日、朝営業トークを練習していると部長からパイプ椅子を投げつけられました。

その後、部屋に閉じ込められて「売れないお前が悪いんだから自己都合って書け」と言われたんですよね。

少しねばったのですが怖すぎたので、結局、やむをえず退職をすることとなりました。

 

今思うと普通に犯罪なので法的措置をとっても良かったんですが、当時はそういう知識もなかったため何もしませんでしたね。

家が社宅借り上げだったため、新卒半年で仕事と家を失いました。

 

手に職を得るために専門スクールへ

家と仕事を失ったため、ひとまず実家に帰り、生まれて初めて親に人生相談をしました。

デザイナー兼コピーライターとしてキャリアをスタートし、当時は広告代理店でクリエイティブディレクターをやっていた父親から、

「お前は俺の息子なんだからデザイン向いているんじゃないか」

と言われました。

その論理には特に納得しなかったのですが(笑)、クリエイティブスキルを身につければ食いっぱぐれることもないと考え、親に100万借金してWeb系の専門スクールであるデジタルハリウッドに入学し、半年ほどWebデザインを学びました。

そこで、小さい頃から企画したり物作りしたりが好きな自分が開花し、どんどん作りたいものを作ったり、新しい技術に手を出したりして、Web制作力を磨いていきました。

 

ニートを経て社会と関わることの大切さを知る

専門スクールを卒業後、「スキルを身につけた今、別にいつでも就職できるからすぐじゃなくてもいいか」という慢心をし、ニート生活に突入します。

実家で暮らしていたこともあり生活費はあまりかからず、毎日好きなWebサイトやシステム、デザイン等を作りまくっていました。

しかし、社会との関わりを断ってしまったことで、徐々にメンタルに不調をきたしてしまったため、半年ほどでニート生活にピリオドを打ち、就職活動をおこなうことにしました。

ただ、このニート期間は悪いことばかりでもなく、ニートをしていたからこそ学べたことが2つありました。

それは、

  • 自分の好きなことで誰かを幸せにできると自分も幸せということ
  • Web制作系のスキルがあれば再就職は容易ということ

ということ。

これらが今の仕事観に繋がっている部分があるかもしれません。

 

会社員時代(2社目)

脱ニートをして、Webのシステム開発の会社にWebデザイナーとして入社しました。

40代社長がシニア起業した中小企業でしたが、社長はヤフー出身、CTOはソニー出身で、本当に少数精鋭のベンチャーでした。

 

社長からは「売り上げに繋がるなら何をしてもいい」と言われたため、僕は勝手にWeb制作の仕事をとってきたり、既存顧客へ企画提案をおこなって動画撮影やブログ執筆をおこなったり、Webデザイン以外のさまざまな仕事をおこないました。

 

仕事内容自体はとてもやりがいがあり、器用にさまざまなスキルを身につけることができました。

しかし一方で、

・タスク管理や時間管理が異常にできない

・忘れ物やなくし物が多い

・遅刻が多い

・指示を受けたことと別のことを始めてしまう

など、極端に苦手なことがあることに気がつきました。

 

社長は一生懸命僕のことを育てようとしましたが、なかなか改善せず、徐々に社内での立場が悪くなっていきました。

コミュニケーション能力と技術力は人並み以上にあるのに、毎日小学生のようなことで叱られていて、「これはおかしい」と思うようになりました。

 

そこで僕は、初めて精神科医にかかり、「発達障害(ADHD)の可能性が高い」と言われました。

これまで自分の個性や能力のでこぼこの一端を担っていたものの正体が分かり、ホッとしたことをよく覚えています。

 

障害者手帳を発行するために、専門の外来で正式に診断してもらう選択肢もありましたが、僕はそれをしませんでした。

というのも、障害であるかどうかは僕にとっては小さなことに過ぎなかったからです。

障害者として社会に合わせて生きていくより、自分の人生を大きな実験場としてあらゆる実験を繰り返して、自分にあった社会を自分で作り上げてしまえばいい、と考えました。

そうやって道なき道を切り拓いていけば、自分と似た悩みを抱える多くの人たちの救いにもなるはず、とも考えました。

 

今の生き方、働き方、価値基準の直接的な礎ができたのは完全にこの頃でしたね。

実際、YouTuberという言葉がない当時(2013年頃)にいち早くYouTubeに目をつけ投稿を開始したり、交流会を定期開催し200人規模のコミュニティーを作り上げたりしていたのも、この時代でした。

 

パラレルワーカー時代

2社目を退職してからは、常識やセオリーをすべて無視して、まず自分の頭で考え、自分なりの答えを持って生きるようになりました。

エンジニアとして勤める傍ら、芸術家、YouTuber、イベント企画、怪談師、添い寝屋……等、オリジナリティー溢れるさまざまな活動をやっていきます。

(この頃から現在に至るまでの活動実績があまりにも多いので、くわしい活動内容はページ最下部の「経歴まとめ」にまとめておきます)

 

芸術家活動は社会に対するオピニオンとしておこなっていたため、一切お金をとっていませんでしたが、それ以外の活動は仕事化するための種となっていました。

実際に、添い寝屋としての活動報告記事がバズって恋愛メディアの専属ライターになったり、怪談師としての活動を評価されプレゼンの指導をおこなったり、徐々に仕事に繋がっていきました。

 

この頃出会って意気投合した友人から「起業するから一緒に事業をやらないか」と誘いを受け、エンジニアとして勤務するのをやめて、彼と一緒に事業を立ち上げることにします。

月額会員になれば、テレビ番組でT●KIOさんがやっているDASH村のようなことができる自信を持ってサービス。

クラウドファンディングで150万集めて始めた事業でしたが、開始1年以内に資金繰りが難しくなり事業はなくなってしまいました。

事業を手伝うにあたって友人の会社に入社していたので、事業をたたむと同時に退職せざるをえなくなり、さらには鬱病を発症していたため、日常生活が難しくなってしまいました。

 

そしてフリーランスへ

鬱でありながら、日によってとてつもなく躁状態のときがあり、ある日突然、友人女性にプロポーズして長野に移住、同棲を開始します。

しかし、婚約者も双極性障害で就労が難しかったため、生活はすぐにどん詰まりになりました。

僕の方が転がり込んだのだから、当たり前ですが僕がなんとかしなくてはなりません。

そこで、布団の中で唸りながら「仕事ください」とSNSに打ち込んだのが、僕のフリーランスの第一歩でした。

 

最初は長野で頑張ろうと思ったのですが、婚約者以外に周りに知人が一人もいない状況は大変苦しく、仕事を得るどころの話ではありませんでした。

そこで、同棲を解消し、フリーランスの聖地・千葉県富津市金谷へ移住することを決めます。

金谷のことは少し前にTwitterで知っていたので、ツテで金谷にあるシェアハウスに入居することになりました。

 

そこで、田舎フリーランス養成講座(通称:いなフリ)と出会います。

 

 

 

経歴まとめ

2006年 青山学院大学文学部史学科へ入学。サークルは漫画研究会、考古学研究会に所属。委員会は史学会、相模原祭実行委員会に所属。

芸術史コースの西洋美術史専攻。

NHKの某番組の大学祭特集で似顔絵師として出演。つるの剛士さんの似顔絵を描いた。

2010年 訪問販売営業のベンチャー企業に入社。入社半年のある日、パイプ椅子を投げつけられ、部屋に閉じ込められ自主都合での退職を促されて退職(実質クビ)。

しばらく塾講師をやりながら、デジタルハリウッドのWebデザイナーコースでWebデザインを学ぶ。

2012年 ソフトウェア開発のベンチャー企業にWebデザイナーとして入社。デザイン以外にも、ディレクションや企画提案、映像制作等、幅広くチャレンジさせてもらう。3年勤めた後、退職。

また、この年から怪談師YouTuberとして活動を開始、チャンネル登録者数が1,000人超え、YouTuberのイベントに参加。

2013年 高円寺・中野近辺で、アーティストやクリエイターの交流会「Makers」を主宰。クリエイティブ系の人脈がほぼゼロのところから、500人近くまで増加。
2014年 別会社へ出向し、数十名体制の大プロジェクトにアサイン。Webデザイナーとして貢献。案件が炎上していたため、数々の修羅場を目撃しつつ、なんとか業務をこなす。
2015年 外食産業の総合コンサルをおこなうベンチャー企業に転職。Webデザイナーからフロントエンドエンジニアへ転向。cakePHPを利用した自社システム開発に従事。

芸術家としてデビュー。作品「

Someone’s Death is Someone’s Life」が現代アートの公募展で観客賞を受賞

2016年 縦書きWebデザインアワードで自身の制作したWebサイトが入賞。キュレーター兼芸術家として「オンライン展」を原宿で開催、1週間で600人弱を動員

ファッションショー「Freedom Walk」で縫製スタッフを集め、ショーでモデルが着る服の制作ディレクションをおこなった。

東京藝大のミス藝大2016の棚村彩加をプロデュース。企画立案、プロモーションビデオ制作、声の出演をおこなった。

恋愛メディア「らぶりりーす」の専属ライターになり、ライターデビュー

2017年 あの村プロジェクト」の立ち上げメンバーとして、株式会社つくってあそぶに入社。ロゴ制作、Webサイト制作やメディア戦略を担当。野蛮人募集の求人サイトがちょっとバズる

が、飼っていたヤギが死んだことと、毎日3時間睡眠で仕事していたことがたたり、鬱病を発症。業務をおこなえなくなり退職。

このままだと自殺しそうだと恐ろしくなり、長野の松本へ遁走。そのときかくまってくれた女性と友達同士で婚約

2018年 婚約者と同棲して療養に努めたが、鬱がひどく働くことができないまま3ヶ月が過ぎ、やむを得ずフリーランスとなり仕事を請けるようになる。松本でゼロから仕事をとるのが困難と判断し、同棲を解消し(婚約は解消せず)、千葉の金谷に移住

オールジャンルで企画から制作まで携わるフリーランスとして活動している自分を発信するため、「ナナシログ」を開始。

「田舎フリーランス養成講座(通称:いなフリ)」の講師としてデビュー。

婚約者が知らない間に別の人と結婚しており、自動的に婚約破棄

いすみ市大原へ移住。

YouTubeの更新を再開。

2019年 YouTubeのファンが月に3,000人ペースで増加し、YouTuberとしての収益が月10万円を突破。